ベトナムの窓

ベトナムに賭けた人々(記事)

特別企画
ベトナムに賭けた人たち インタビュアー:片岡利昭
e-mail: kintl@pastel.ocn.ne.jp

登場人物
すばる日本語学校
校長 藤澤謹志氏
社長 グエン・ヴイエツト・フーン氏

ホーチミン市で日本語学校を設立して、その教育に情熱を燃やしている若い日本人がいる。 その名前は藤澤謹志氏というが、 今回は、彼の今日までの足跡を追いかける ことにより、現地における日本語教育の現 場に踏み込んでみたい。

まず、 藤澤氏がいつベトナムと関わりあ つたのかからお聞きする。
「私はドンズー日本語学校の日本語教師 として、 1993年7月に来ました。 ここで5年間働いた後、 サイゴンサウスにある不動産関連会社である、サザンクロス社が新しく日本語教育センターを設立するということで、その立ち上げに協力していました」
 ドンズー日本語学校は、1992 年にホエ校長が長い日本留学と日本での教育経験を終えて帰国して設立した日本語学校で、 今では生徒数4,000人余りと、ベトナム最大規模の日本語学校に成長している。
「私はその後、1999 年、人文社会科学大学の付属南学日本語クラス(通称:南学)からの要請を受けて、そこに移りました」 と言う。
 しかし、日本側のこの支援団体は純粋な教育を追及し過ぎたことと、日本のバブル崩壊の影響もあり、資金的な行き詰まりを 見せ、翌年には一時的にその活動を停止してしまった。
 「私は、今までの教育経験から、自分で日本語学校を立ち上げて、生徒の立場に立った教育をしたいと、真剣に考え始めていました。 そこで、2000年、BEP語学センター(別名フジ日本語上級クラス) を立ち上げました。これは、ホーチミン市の計画投資局の認可を受けた合法的な教育機関で、50人までの生徒を教えることができます。私たちは、このセンターを基盤として、日本語教育や翻訳、通訳などの仕事をしてきましたが、同時にいくつかの日系企業と提携して、その社員向けの日本語教育を請け負ったりもしました」
 藤澤校長のお話では、ベトナムでは、語学プームの影響を受けて、各地に英語や日本語、中国、韓国などの語学塾が乱立しているが、その多くは非合法な団体だという。
 その後、 藤澤氏は「すばる日本語学校」を設立することとなるのだが、 そのいきさつをお聞きする。「実際、学校の設立のために一生懸命に奔走してくれたのは、 妻です」とご一緒されている社長のグエン・ヴィエット・フーンさんを振り向きながら話を続けていただいた。

 「3年の準備期間を経て、2006年7月に教育訓練省から正式認可を取りました。それは申請書類を提出して、6ヵ月後のことでした」
 「認可を取るまでには、資金的な苦労をされたことでしょうが、それ以外で最も苦労されたことは何でしょうか」
 「お金以外で苦労をしたのは、認可取得条件として、事前に校舎の確保を要求されることです。私たちの学校は、ホーチミン市内でもー区の中心地です。特に1区の場合は、語学学校の粗製濫造を嫌う市当局が、教室数を最低10室要求しているのです。地代の高い1区で大きな校舎を確保して、しかも、認可取得までの半年間、空家賃を払うということは大変な負担でした」
 賃貸条件として、6ヵ月分の家賃の先払いと6ヵ月分の保証金を、契約と同時に支払う必要があったそうだ。 さらにお話を続 けていただく。
 「当局は、市の中心地を商業・金融センタ ーとして都市の再開発をしたく、そのため、教育機関を郊外に移転させようとしているのです。市街地から離れると、教室数が5つでも問題はありません。しかし、この資金問題も妻の協力があって何とか乗り切ることができました」

 ここで、奥様は何をされていたのか、 また、ご結婚はいつなのかと、個人的話題に入る。 なお、お話はほとんどすべて藤澤氏が発言されて、 奥様はあいまいな話や間違った説明があれば、お言葉を挟まれる程度で、それ以外は終始ニコニコしながら我われの話を聞いておられた。
 その前に、フーンさんの日本語はどこで勉強されたのか、直接、彼女にお聞きする。
 「私は1993年、ドンズー日本語学校で1年間集中教育を受けました。学校で入学願書を提出したとき、たまたま、赴任間もな い藤澤さんと初めて会ったのです。そして、結婚の届け出をしたのは 2001年でした」
 藤澤氏のお話では、フーンさんのご家族はハノイの出身のため、結婚書類の手続きは2人でハノイまで出かけていって、精神鑑定や血液検査などの徹底的検査を受けた上で、1ヵ月後ようやく受理されたそうだ。
 ところでフーンさんは、スズキ自動車のベトナム工場の立ち上げ段階で、社長秘書をしていた。 そして、1998年、結婚式な どの記念写真アルバムの製作の店を開いた。フーンさんに詳しいお話をしていただく。
  「私の店は、画家である兄に手伝ってもらったおかげで、その奇麗な装丁が写真好きのベトナム人の評判となり仕事が順調に伸びていきました。 休日のクリスマスなど、皆が遊んでいる間も、店を開けて働きました。それでも、せっかく稼いだ利益は学校設立の準備資金に消えてしまい、生活は大変に苦しいものでした。 当時は、コンピューターによるグラフィックデザインの取り込みなどはなくて、写真を切り抜いたうえ、台紙にフィルムで貼り付けるという、 すべて手作業でした」

 さらに藤澤校長のお話をお聞きする。
 「私が働いていたドンズー時代の初期のころの給料は、月約50米ドルでした。校舎には宿舎と昼の食事は付いているとは言うものの、これでは、一般のベトナム人と同じ生活であり、道端に座って飲んだり食ぺたりしていたため、絶えず腹の調子が悪かったです。 それにもかかわらず、在職期間中に休んだことは一度もなく教壇に立ち続けてきました」
 ドンズー日本語学校の場合、その授業料はベトナム人にしてみれば高いかもしれないが、非常に安く、そのため職員の給与も 安く抑えられている。
 さて、すばる日本語学校は、現在、ホーチミン市の日本人商工会に会員登録をしているが、メンバーの1人から、ある時、「学校はどこか日本の公的機関に所属しているのですか」と聞かれ、
  「いや、単独です」と答えたところ、 支援もなしここどうやって経営を維持しているのか、と信じられない表情をしておられたそうだ。
 「そのような厳しい条件の下で、大変な思いをしてまでも市街地で学校を開く必要があったのでしょうか。 中心地をすこし離れれば、安い賃貸料金でスタートできたはずですよね」
 「私の考え方は、あくまで生徒が中心なのです。それも、中・上級者を対象としたいので、彼らは会社や学校が終わった後、 勉強に来てくれるのです。彼らのことを考えると、遠方ではだめです」
 藤沢校長の話は続く。「少し余談になるが、数年前、不動産業をしている兄の勧めで、当時、農地と泥沼だけだったサイゴン川の対岸に小さな宅地を購入しておきましたが、最近のベトナムでの熱狂的な住宅開発ブ-ムのおかげで値段 が 4~5 倍に跳ね上がり、 日本円で数千万円を手に入れることができました」
 ようやく、経済的に一息つけるようになられたようだ。 ところで、現在の生徒数と教員数はどうなっているのだろうか。
 「先生は日本人が2名と、ベトナム人2名の計4名体制です。生徒数は、開設当時は50名だったのが、今では 100 名弱となっています。 教員が限られているのと少人数クラスが原則なので学生数も増やせないのです。生徒募集は、おもに新聞広告と口こみだけです」

 ここで、 藤澤校長の教育に対する基本的お考えあらためてお聞きする。
 「教育とは教えるということではありません。 教えることで教えてもらっているのだと 私はいつも感じています。例えば、 いい加減な気持ちで教壇に立って授業を始めたりしたとき、生徒の真剣な態度とその目を見て、竹刀で叩かれるような思いをすることがあります。彼らは一生懸命なのです。教えてあげるという気持ちでは到底ダメです。教えさせていただいている、という表現でもまだ、借越なくらいです」
  さらにお話を続けていただく。
  「ドンズ一時代は、日本人教員20%に対して、ベトナム人教員が80%と圧倒的に多く、ある意味、日本の先生は刺身のツマのような存在でした。それぞれの生徒の立場に関係なく、先生が一方的にしゃべっており、生徒が不在でした。教育は生徒個人それぞれに合った教育手段で臨む必要があります。個人によって不得手な部分が違うので、それを補うことが本当の教育です。 また、世間では 『漢字のドンズー、会話のさくら』と言われていますが、私は生徒に合わせた教育を追及します。これは、ベトナムには今までなかった教育方針なのです」

 授業時間と授業料はどのようになっているのだろうか。
 「授業時間は、朝の9時から11時半までと、午後は1時半から4時半まで。それから、夕方の5時半から7時半までの3部制です。授業料はレベルによって違いますが、初級の場合は、3ヵ月で120万ドン(約8400円)。これは週3回、それぞれ1時間半です。ベトナムでは日本語教育は、英語と比べるとかなり低くみられているのが現状です」
 この授業料は、例えば英語専門のプリティッシュ・スクールやインターナショナル・スクール、またはオーストラリアの RMIT (メルボルン工科大学のベトナム分校) などの、年間、百数十万円の授業料と比べると格段の差がある。これらの学校の責任者は、「教育とはビジネスだ」とはつきり言い切っており、懸命に営利追求をしているのである。それにもかかわらず、お金持ちの子弟が競争して入学してきているのが現実だ。
 たとえば、RMITの場合など、そのマイケル・マン学長は、元は駐ベトナム・オーストラリア大使だったことで、その政治力を利用して、大々的に大学を発展し成功させてきた。その学舎は、最近土地の暴騰が激しい新興住宅地のサイゴンサウスに12万㎡の敷地を持ち、2面のサッカー場を建設している。 また、4階建てで延べ面積、1万2,000㎡の校舎を持つという欧米スタイルの大学である。学内では、ベトナム語は禁止で英語だけによる授業だ。海外留学なみの高い授業料にもかかわらず、ベトナム各地だけではなく、近隣諸国からも若者が殺到し、ホーチミン市だけでも3,000人の学生を擁し、数年前にハノイ校を開設したがここも現在、学生数2,000人に達しよう としている。
 このようなコマーシャリズムに乗って営利を追求する教育方針は、すばる日本語学校の教育に対する情熱とは対照的である。
 「ところで、ベトナムにおける一般的な公立の学校教育は、どのようになっているのでしょうか」 「それは一言で言えば、教える側の質と量に問題があります。小学校から教育は暗記が中心なのです。教師が一方的に話をしてそれを筆記するという一方通行で、生徒が先生に質問をする機会が与えられていません。暗記が主体で、それがすべてです。そのため、学生には自分で判断する能力が欠けるのです。社会人になってもこの傾向は変わらずに、命令されたことだけをとりあえず忠実に実行するが、自分で判断をすることができないのです。やはり、判断力がないと本当の仕事はできないはずです。その原因は教える側にもあり、教授陣には自分のスキルを磨く機会と環境がないため成長ができないのでしょう」
 質の問題と同時に、やはり国の貧弱な財政的理由から、教室と先生の数が圧倒的に不足しており、大都市、地方を問わず、ベ トナムの学校は小学校と中学校は二部制を取っている。

 また、古い大学の場合、その学舎はどことも校庭もないような貧相で古い建物だ。それだけではなく、大学への入学の門は極端に狭く、そこに受験生が殺到し熾烈な受験戦争を展開している、というのが現実だ。これは、フランス植民地時代、一般のベト ナム人に対してとられた 『知らしめるべからず』 の政策の下、教育がなおざりにされた影響なのであり、それが六十数年たった今でも足棚として残っている。それを、ベトナムの若者の教育に対する熱意と上昇志 向が補っていると言えるのである。
  「ところで、英語教育が飛びぬけてのナンバーワンということのようですが、 次に日本語が来るのでしょうね」
 「いや、 そんなことはありません。次はフランス語や日本語、中国語、韓国語などであり、それらばすべて同じ程度でしょう。 日本語は、皆さんが思われているほど広まっているわけではありません。言語はその『国を支配』する、といっても良いくらい大切なもの、ということを理解してほしいのです。 会社でも、社内言語として何語を使うかが大切な問題であり、 例えば、ある企業では日本語を共通言語としており、従業員も喜んで日本語を勉強して生産性も上がってきています」
 最近の傾向として、中国も韓国も企業進出だけではなく、ベトナムにおける語学教育にも、国を挙げてますますその熱を上げてきている。 また、テレビなどのメデイアを通じで盛んにその国の映像を流している。 ケーブルテレビを通して、中国語や韓国語放送は、それぞれ5~6チャンネルもあり、それが常時流れている。
 ベトナム戦争中、あれだけ残虐非道な行為を行った韓国は、 戦後、その悪い印象を テレビを通してメロドラマを流し続けることにより、ベトナムの女性たちの歓心を呼んでいる。彼女たちの口からよく聞くのは、「韓国の人たちは悪いと思っていたのに、テレビでそれほどでもない、ということがわかった」 ということだ。
 武器だけが戦争の手段ではない。 中東のカタールにその本部を持つアルジャジーラ は、 はっきり表明している。 「これからは、メディア戦だ。 武器を持って戦うだけが戦争ではない」と。 ここは、アラピア語と英語による放送を世界に向けて24時間流し続けている。
 それにしても、日本は海外向けテレビ放送といえば、「NHK衛星放送」だけが唯一の手段であり、それも、世界の感覚から大きく外れた内容を得意になって流しているが、どのレベルを対象としているのかがわからない。『そろそろ、幼児番組や料理番組、英会話教室などで、時間をつぶすようなことは卒業して欲しいものである。
 すでに、世界ではメディア合戦が始まっているのであり、これは大いに懸念される現象である。世界に向けて「日本を売り込 む」ということが必要なのであり、それに気づくの遅すぎた、ということのないよう祈るのみだ。 ところで、上述のアルジャジーラは、政府の支援がなくなった今は、広告収入が極端に少ないため、海外のメディアからの放映権収入で成り立っている。その最大の客はNHKということだが、これは何たる皮肉か。

 話題を戻して、日本政府の海外での日本語教育に対する支援はどのようになっているのだろうか。政府からの支援はあるのだ ろうか。
 「支援といえば、申請して許可されれば国際交流基金から年間、最大15万円分の書籍が支給されるくらいでしょうか」
 「ー人当たりですか」
 「いいえ、 学校全体に対してで、それも年間です」
 ところで、藤澤校長は、1998年、今でも続く『ベトナム人による日本語スピーチコンテスト』を最初に開催して成功した人だが、 当時のいきさつをお聞きする。
 「コンテストの基金は、人文社会科学大学の南学時代、仲間の先生が帰任するに際して数百米ドルを寄付金として残してくれたのがきっかけでした。すでにバンコクでは成功させていたので、私はバンコクへ行っ てノウハウを調査してきました。初年度はノウハウも資金もなく大変でしたが、その後は国際交流基金からの支援があります。 これは、ベトナムの若者の日本語熱を上げ るために、大いに貢献しているものと確信しています」

 ここで、すばる日本語学校の現状と、将来の夢のようなものについて語っていただく。
 「いまの最大の課題は、しっかりした先生の確保です。『先生でも』しながらしばらくベトナムに滞在してみよう、というような甘い考えの若者が時々います。しかし、そのような先生は生徒の期待に応えられず長続きしません。また、資格免許がある人が必ずしも良いとは限らず、むしろ、資格のない人でも情熱があり素直な方が純粋に教育に打ち込めるようです」
 静かだが熱のあるお言葉が続く。
 「教育は、学ぶ側に立つものなのです。私は、その理想を追いながら、例えば、ホーチミン日本語大学のようなものを設立したい。 しかし、言葉はあくまでも手段なのであり、そのため、その大学では同時に日本語による ITなどの専門学科を充実したいものです。インドのITは、英語に特化しているが、ベトナムでは日本語によるIT教育は発展しやすい環境にあります。また、英語教育はビジネスとして立派に成り立っているが、日本語は企業化していないが、これをビジネスとなるように育てていきたい。しかし、教育は『満足』を売る事業であり、私は私の『魂を入れた』 教育を続けていきたいものです」
 教育に対する真摯で、しかも溢れるよう な情熱を語ってくれた。最後に、ベトナムでの生活を、どのように感じておられるのかをお聞きする。
 「ここでの生活は充実しており、私は大変満足しています。15年の滞在と、家族のお陰でようやく第二の祖国ができつつあるように感じています」 とお言葉を締めくくっていただいた。
 大学の後輩で、十数年ぶりにお会いしたのだが、以前の若い燃えたぎるような情熱の火は、謙虚な中にも、相変わらず盛んなことに安心した。心からさらなる発展をお祈りしたい。